何が起きたか

前447年から前432年にかけて、アテネはアクロポリスの丘に女神アテナ・パルテノスの神殿を建設した。ペリクレスの造営事業の中核であり、建築家はイクティノスとカリクラテス、彫刻はペイディアスが統括し、その手になる金と象牙の巨大なアテナ像が内部に立っていた(像はとうに失われている)。ペンテリコン産の大理石で築かれ、様式はドーリア式にイオニア式の要素を加えたもので、柱がわずかに内側へ傾き、基壇が緩やかに湾曲するという、全体を完全にまっすぐ見せるための視覚的補正で名高い。フリーズ・メトープ・破風の彫刻群は、ギリシア彫刻の頂点に数えられる。

背景

建設費の一部は、前454年にアテネへ移されていたデロス同盟の金庫から賄われた。これは古代から論争の的であり、アテネ帝国をめぐる現代の議論でも変わらぬ論点となっている。

影響

神殿はのちにビザンツ時代には聖母の教会として、オスマン時代にはモスクとして使われた。1687年、ヴェネツィア軍の砲弾が内部に貯蔵されていたオスマン軍の火薬に命中し、破滅的な爆発が今日見る廃墟を生んだ。現存する彫刻の約半分は1801年〜1812年にエルギン卿によって持ち出されて大英博物館にあり、ギリシアは数十年にわたり返還を要求し続けている。これは世界で最も注目される文化財返還問題の一つで、残りの彫刻はアテネのアクロポリス博物館に展示されている。ユネスコ世界遺産として長期の修復が続き、神殿は古典期ギリシアを代表する象徴の一つであり続けている。