人物
咸豊帝の側室として宮廷に入り、その世継ぎを生んだ。咸豊帝の死後に起きた1861年の政変を経て共同摂政となり、以後は簾の陰から生涯にわたり宮廷を支配した。
何をしたか
洋務運動による兵器廠や艦隊の建設は容認したが、戊戌変法(1898年)を弾圧し、光緒帝を宮中に幽閉した。1900年には義和団の側に立って列強と戦い、この戦争は懲罰的な北京議定書(1901年)で終結した。その後は、科挙の廃止(1905年)を含む清末の「新政」を承認した。1908年11月、光緒帝の死の翌日に没した。その前に、幼い溥儀を帝位に就けていた。
後世への影響
評価は分かれている。長らく清を滅亡へ導いた反動政治家と非難されてきたが、崩れゆく帝国の中で権力を維持した手腕を評価する現代の研究もある。