人物

弘暦。北京に都を置いた清の第4代皇帝。祖父康熙帝の治世を超えないよう、満60年で1796年に譲位したが、太上皇帝として死去する1799年まで実権を保った。

何をしたか

自ら「十全武功」と称した征服事業では、1750年代にジュンガル政権を滅ぼし、1759年にタリム盆地を「新たな領土」=新疆として組み込み、帝国を最大版図に導いた。文化面では『四庫全書』(約36,000冊)を編纂させたが、その編纂は、反満的とみなされた書物を検閲・破棄する文字の獄と並行して行われた。自身は多作の詩人であり、美術品の収集家でもあった。1793年にはイギリスのマカートニー使節団を引見し、その通商要求を退けた。治世末期には腐敗した寵臣・和珅が巨額の富を蓄え、1796年には白蓮教徒の乱が始まった。

後世への影響

最大版図における盛清の繁栄と、19世紀の危機の端緒となるひずみの双方を残した。