何が起きたか
前518年頃、ダレイオス1世はペルシス地方の山中(現在のシーラーズ近郊)に築いた巨大な石造テラスの上で造営を始め、クセルクセス1世と後継者たちが約150年かけて拡張した。ここは帝国の儀礼の中心であり、数千人を収容した謁見殿アパダナや宝物庫が建てられ、帝国各地の民の使節が貢物を捧げる浮き彫りは、王の理念を石に刻んだものだった。日常の都はスサ・バビロン・エクバタナに置かれていた。
背景
建設を担ったのは賃金労働者だった。ペルセポリス要塞文書と呼ばれる粘土板は、帝国各地から集まった男女の労働者への配給と賃金を記録しており、奴隷が築いたというイメージに反する直接の証拠を示している。建築には帝国の諸伝統が融け合い、ペルシアの列柱式の広間にエジプト・メソポタミア・リュディア・イオニアの職人技が結びついた。
影響
前330年、アレクサンドロス大王はペルセポリスを焼いた。それが意図的な政策だったのか、古代の一部の伝えが語るような酒宴の勢いによる行為だったのかは、今も議論が分かれる。遺跡はペルシア語でタフテ・ジャムシード(ジャムシードの玉座の意)と呼ばれ、1979年にユネスコ世界遺産に登録された、イランで最も有名な部類に入る古代遺跡である。