人物

本名ミールザー・タギー・ハーン、アミール・キャビールの称号で知られる(1807年頃〜1852年)。政治家の屋敷に仕える料理人の子として生まれ、才覚によってガージャール朝の官僚機構を昇りつめた。1848年から1851年まで若きナーセロッディーン・シャーの宰相を務め、19世紀イラン最大の改革者としばしば呼ばれる。

何をしたか

わずか3年の間に、イラン初の近代高等教育機関である理工学院ダーロル・フォヌーン(彼の罷免から約6週間後の1851年12月末に開校)を創設し、宮廷への俸給と腐敗を削減し、財政と軍を再編し、宗教法廷の権限の及ぶ範囲を抑え、最初の本格的なペルシア語新聞ヴァガーイエ・エッテファーギーエを創刊し、種痘と国内製造業を奨励した。その緊縮策は、廷臣や皇太后といった有力な敵をつくった。1851年に罷免されてカーシャーンへ追放され、1852年1月、若いシャーが署名するよう仕向けられた勅令により、フィーン庭園の浴場で殺害された。伝えられるところでは、シャーは後にこれを悔いたという。

後世への影響

標準的な歴史解釈では、彼は道半ばで断たれた改革の国民的象徴であり、ガージャール朝史における「選ばれなかった道」を体現する人物と位置づけられる。殺害の地フィーン庭園と彼のダーロル・フォヌーンは、記憶され続ける史跡である。