人物

ローマに生まれ、20代半ばでローマ大学の物理学教授となった。理論と実験の双方で第一級に立った最後の物理学者の一人と評される。

何をしたか

ローマ時代には、のちにフェルミオンと呼ばれる粒子が従う統計と、弱い相互作用を導入するベータ崩壊の理論を打ち立てた。「ヴィア・パニスペルナの若者たち」と呼ばれた研究チームとともに諸元素に中性子を照射し、減速させた中性子が反応をはるかに起こしやすくすることを発見、この業績で1938年のノーベル物理学賞を受賞した。同年のイタリアの人種法はユダヤ系の妻ラウラを脅かし、一家はストックホルムでの授賞式からそのままアメリカへ渡った。1942年12月2日、シカゴ大学で彼のチームは史上初の持続的な核連鎖反応「シカゴ・パイル1号」を成功させ、その後はロスアラモスでマンハッタン計画の中心人物の一人となった。

後世への影響

戦後はシカゴ大学で教え、門下から複数のノーベル賞受賞者が育った。1954年、53歳でがんのため死去した。100番元素フェルミウムやシカゴ近郊のフェルミ国立加速器研究所にその名が残り、フェルミオンやフェルミのパラドックスなど、物理学の随所にその名が刻まれている。