人物
1564年、音楽家であり音楽理論家でもあった父のもとピサに生まれ、医学の学位を捨てて数学に転じた。1589年からピサ大学、1592年からパドヴァ大学の数学講座を担い、パドヴァでの18年をのちに生涯で最も幸福な歳月と呼んでいる。1610年にフィレンツェへ戻り、メディチ家大公の数学者兼哲学者となった。生涯結婚せず、修道院に入ってマリア・チェレステ修道女となった長女が書き送った手紙が、その家庭の姿を伝える最も近しい記録として残っている。1642年、フィレンツェ郊外のアルチェトリで没した。
何をしたか
彼は望遠鏡を改良し、木星の衛星、金星の満ち欠け、月のクレーターを観測して、コペルニクスの地動説を裏づけた。その主張ゆえに、1633年にローマ異端審問所の裁判にかけられ、説を撤回させられたうえ、晩年を軟禁のうちに過ごした。彼はまた運動の研究をも前進させた。
後世への影響
近代的な観測天文学、そして近代物理学の父としばしば呼ばれる彼は、科学とドグマの対立の象徴となった。教会がその断罪の誤りを認めたのは、数世紀ののちのことであった。