人物
1804年に生まれ、即位までの27年間を仏僧として過ごした。僧侶時代には、より厳格な戒律と経典研究を旨とする改革派のタンマユット派を創始し、宣教師から西洋の言語と科学を学んだ。
何をしたか
1851年に即位すると、シャムを条約体制へと開いた。英国とのボーリング条約(1855年)に続き、他の列強とも同型の条約を結んだ。印刷、造船、道路、西洋人顧問の登用など近代化に着手した。子どもたちの家庭教師としてアンナ・レオノーウェンズを雇ったが、彼女の脚色された回想録は後に舞台や映画のフィクション化された描写を生み、歴史家やタイの人々はこれを戯画とみなしている。熱心な天文学者でもあり、1868年8月18日の皆既日食を自ら計算し、ワーコーまで観測に赴いた。予測は正確そのものだったが、現地でマラリアにかかり、1868年10月1日に死去した。
後世への影響
交渉と近代化という路線を敷き、息子のチュラーロンコーンがそれを完成させた。タンマユット派は今も主要な僧団の系統であり、日食の業績によってタイでは「タイ科学の父」として記憶されている。