人物

フランスで訓練を受けた砲兵将校で、1932年のタイ立憲革命では人民党(カナ・ラーツァドーン)の軍側指導者のひとりだった。

何をしたか

第1期(1938〜44年)は権威主義的な国民国家建設を進めた。1939年に国名をシャムから「タイ」に改め、服装・言語・慣習を標準化する文化統制令(ラッタニヨム)を発した。失地回復を掲げたタイ・フランス領インドシナ紛争(1940〜41年)でラオスとカンボジアの領土を取り戻したが、これらは第二次世界大戦後に返還された。1941年12月に日本軍が進入すると日本と同盟を結び、1942年に英国と米国に宣戦した。戦局の悪化に伴い、1944年に退陣した。戦後は戦争犯罪の訴追を受けたが、法の遡及適用は認められないと判断されて無罪となった。1947年のクーデタを機に復権し、1948〜57年に再び首相を務め、東南アジア条約機構(SEATO)時代の米国との冷戦協調路線に乗った。1950年代半ばには民主的な開放も試みたが、1957年9月、陸軍の政敵サリット・タナラットのクーデタで失脚し、1964年に亡命先の日本で没した。

後世への影響

「タイ」という現在の国名、服装や言語の標準化に及ぶ文化統制令の遺産、そして軍主導の統治の型を残した。20世紀タイで最も影響が大きく、また最も評価の分かれる人物のひとりとされる。