人物

ムハンマド・アリー(1769年〜1849年)は、現在のギリシアにあたるカヴァラで、オスマン帝国に仕えるアルバニア系の家に生まれた。1801年、フランス軍に対抗するため派遣されたオスマン軍とともにエジプトに到着した。

何をしたか

競争相手を出し抜き、1805年にオスマン帝国からエジプト総督(ワーリー)として承認され、1811年のシタデル(城塞)の虐殺でマムルークの指導層を壊滅させた。徴兵制の軍隊、国家専売制、綿花経済を築き、学校を開き、ヨーロッパに留学生を送り、工業化も試みたことから、しばしば近代エジプトの建設者と呼ばれる。さらに帝国の中の帝国とも言うべき勢力圏を築き、スーダン、アラビア、ギリシア(1827年のナヴァリノで列強の海軍に艦隊を撃滅されるまで)、シリアへと拡大した。オスマン軍を打ち破りながらもヨーロッパの介入(1840〜41年)で抑え込まれたが、一族によるエジプトの世襲統治権は確保した。

後世への影響

その子孫は副王(ヘディーヴ)、のちに国王として、1952〜53年に王政が倒れるまでエジプトを統治した。彼自身は、カイロのシタデルに自ら建てた雪花石膏のムハンマド・アリー・モスクに葬られており、同モスクは今もカイロのスカイラインを象徴するランドマークである。