人物

前356年、マケドニア王ピリッポス2世と王妃オリュンピアスの子として生まれた。父が改革した軍と、カイロネイアの戦い(前338年)で確立したギリシア支配が、飛躍の土台となった。前343年頃からはミエザでアリストテレスに学んだ。前336年、父の暗殺を受けて20歳で即位すると各地の反乱を鎮圧し、前335年には反旗を翻したテーバイを破壊してギリシアへの見せしめとした。

何をしたか

即位からの11年で、エーゲ海からエジプト(アレクサンドリアを建設した)、さらにインダス川に至るまでペルシア帝国とその先を征服し、会戦では一度も敗れなかったとされる。前326年秋、インドのヒュファシス川で軍が進軍を拒むと引き返し、帰路のゲドロシア砂漠の行軍では多くの命が失われた。統治ではペルシア宮廷の儀礼を採用し、スサでの集団結婚に象徴されるエリート融合策を進めたが、これはマケドニア人の反発を招いた。酔った激情のうちに側近クレイトスを殺害し、歴史家カリステネスを処刑するなど、その記録には暗い側面もある。前323年6月、バビロンで33歳を目前に死去した——熱病説のほか毒殺説もあるが、いずれも証明はできない。

後世への影響

死後、帝国は後継者(ディアドコイ)と呼ばれる将軍たちの間でただちに分裂し、ヘレニズム諸王国が生まれた。遠征はギリシア語とギリシア文化を西アジアとエジプトに広め、コイネー・ギリシア語を共通語とするヘレニズム世界を生み出した。しばしば史上最高の指揮官と呼ばれ、その用兵は今日まで軍事の手本として研究されてきた。数十の文化圏で伝説となり、『アレクサンドロス・ロマンス』やペルシア叙事詩のイスカンダルとして語り継がれている。その評価は、諸文明を結んだ夢想家とみる立場と破壊者とみる立場とに、今も分かれている。