人物

ホメイニ(1902〜1989年)はホメイン出身のシーア派最高位の法学者(マルジャ)で、コムで教鞭を執った。1963〜64年、白色革命と米国要員に与えられた地位協定上の特権を非難して全国的な名声を得て逮捕され、1963年の抗議は死者を出して鎮圧された(犠牲者数の推計には幅がある)。1964年に国外追放となり、トルコ、次いでナジャフ、最後は1978年からパリで亡命生活を送った。ナジャフでは法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)の理論を打ち立てて聖職者による統治を説いたが、これは当時の高位聖職者の間では少数派の立場だった。

何をしたか

亡命先からの説教は密輸されたカセットテープで広まり、彼を革命の声であり象徴とした。1979年2月1日に帰国して大歓迎を受けると、王制の暫定政府との妥協を一切拒み、自らの政府を任命し、イスラム共和国を創設する国民投票を主導した。最高指導者(1979〜89年)としては自らの理論を軸とする憲法体制を敷き、米大使館占拠による人質事件を事後に支持し、イラン・イラク戦争を遂行して、1988年の停戦受け入れに際してはその決断を毒を飲むことになぞらえた言葉を残したと伝えられる。その統治下では対立派閥が弾圧され、政治犯が大量に処刑された。とりわけ1988年の処刑は人権団体が数千人規模と推計して記録しており、あわせて法と社会の厳格なイスラム化が進められた。1989年に作家サルマン・ラシュディに対して発したファトワーは、世界的な非難を浴びた。

後世への影響

1989年6月に死去し、その葬儀には数百万人と推計される群衆が集まり、史上最大級とされる。最高指導者の地位はアリー・ハメネイが継承した。イスラム共和国の創設者として20世紀で最も重大な影響を残した人物の一人に広く数えられ、支持者は精神的・反帝国主義的指導者として崇敬し、反対者は弾圧を理由に非難している。