概要

縄文人は糸も針も持ち、編みの技法も豊かであったが、織機は持たなかった。織機が入るのは稲作とともに、縄文の終わりである。布は籠や敷物と同じ技法で、経糸に緯糸を絡げながら手で作られた。青森の三内丸山遺跡から出た小さな編み袋は、現存する縄文の布としてもっとも状態がよいが、衣服ではなく容れ物である。衣そのものは残っていない。植物繊維は酸性の火山灰土のなかで一万年をもちこたえないからである。福井の鳥浜貝塚のような低湿地遺跡からは縄や漆塗りの櫛、編み籠が出ており、素材と技術は定まるが、仕立てまではわからない。

着方と特徴

体に合わせて形づくることはなかった。編まれた植物繊維の衣は平らな一枚であり、片肩あるいは両肩に掛けて巻き、腰で紐を結んで留めた。北の冬には、その上に毛皮や革を重ねた。骨角の針は布を縫い合わせたことを示すが、体に沿わせた形跡も、袖を付けた跡も、袖ぐりを裁った跡もない。よく残るのは装身具で、その量は多い。糸魚川から南へ運ばれたヒスイの玉を首に掛け、貝の腕輪を二の腕にはめ、何年もかけて広げた耳たぶに土製の耳飾りを通した。大きなものは梅の実ほどの幅がある。土偶の全身を覆う細かな文様が、文様のある衣なのか、入れ墨なのか、その両方なのかは今も議論が続く。本頁の土偶は、所蔵館によって衣をまとった姿と解されている。

歴史

縄文時代はおよそ前一万四千年から前三百年まで続く。列島の衣服の伝統としては群を抜いて長く、そして群を抜いて見えにくい。それを終わらせたのは流行ではなく技術である。大陸から水稲耕作が伝わり、栽培された麻と原始機と織布がともに入り、頭を通す穴をあけた一枚の織物である弥生の貫頭衣が、手で編むものすべてに取って代わった。