概要

夏は中国の歴史伝統における三代の最初であるが、その伝統は遅い。前一〇〇年頃に書かれた『史記』が、千年以上のちになって王統と年代を与えるのである。考古学が差し出すのは確証ではなく候補である。黄河中流域の二里頭文化、おおよそ前一九〇〇年から前一五〇〇年で、宮殿と青銅の工房、そして王朝が必要とするだけの組織の規模をもつ。二里頭が夏であるかどうかは本当に決着していない。夏の衣服についてのいかなる叙述も、何よりまずこの未決の同定の上に載っている。

着方と特徴

証拠は衣ではなく、身につけられた物である。本頁の飾板は青銅で、切り出したトルコ石の細片を数百枚象嵌して様式化された獣面をなし、側面には鋳出しの環がある。何かに——衣にか身体にか——縫い付けるか括り付けるかして、胸に着けられたのである。その作りこそが論拠となる。これだけの手間をかけた物は人の上に見せるために作られるのであり、そうした見せ方が意味をもつ装いが存在したということである。二里頭にはほかに玉の刃と柄、子安貝、骨の笄がある。織物そのものは圧痕としてしか残らない。麻の、そして遺跡によっては絹の織り目が、粘土に押され、あるいは青銅に接して鉱化したものである。

歴史

したがって誠実な記述は否定形になる。夏の袖がどう裁たれたか、袍が左前か右前か、色が何を意味したかを述べる根拠はない。言えるのは、この時期までに布は織られており、装飾はきわめて高い水準で作られ、そのいずれもが少数の手に集められつつあった、ということである。視界が開けるのは殷からである。玉と大理石の像が、実際の人が実際の袍を着た姿——交領で帯を締め、右前に合わせる——を見せる。中国の衣服についての記述が、留め具からの推論ではなく図像に照らして確かめられるようになる最初の地点が、そこである。