概要

この組み合わせを上衣下裳という。殷はそれが目に見えるようになる最初の時代である。衣は胸の前で交差し、右側が下になる。この向きは以後の中国服で動かなかった。袖は手首で細くなる。布は残らないから、仕立ては玉・大理石・青銅の小像から読むほかない。もっとも名高いのは、一九七六年に発掘された安陽の婦好墓から出た跪坐の人像で、襟と帯と裾がはっきりと表されている。

着方と特徴

衣そのものに留め具はない。前の二枚を打ち合わせて閉じるので、働きはすべて帯が担う。幅の広い織帯を腰に巻いて結び、襟を合わせたまま押さえ、同時に裳を位置に留める。その前面からは方形の蔽膝が垂れる。もとは身を守るためのものであったろうが、玉に彫られた時点ですでに身分の標であった。髪は頭上高くに結い上げ、笄で留めた。これらの墓から出た玉や骨の笄は数百本に及ぶ。結い上げた髪の上に、体に沿う冠をかぶる像もある。帯には玉の垂飾が下げられ、装い全体は、立っていても跪いていても正面から読まれるように組み立てられていた。

歴史

絹はすでに織られていた。布としてではなく、副葬の際に巻きつけられた青銅器の表面に残る圧痕と鉱化した痕跡として伝わっており、織の密度もそこから知られる。この時代の装いは、季節や快適さではなく、身分と祭祀についての表明である。何を着られるかは生まれと官職に従い、墓はその落差をあらわにする。上には玉と文様のある絹と青銅の工芸があり、下にはその種のものが何もない。周はこの体系をそのまま受け継いで文字に記し、交領右衽の衣に裳を合わせる姿は、清に至るまで中国の礼服の土台であり続けた。